恥ずかしいけれど、差し出してみる。|カフェ店員 今田 順

Tramp Trackをご覧のみなさま
どうもこんにちは。はじめまして。

今田順(いまだ・じゅん)と申します。

これから綴る文章が
お読みいただいている方のご期待に応えられるのか
甚だ不安ではあるのですが、

自分がどんな働き方をしているのか、
どんなことを考えているのか、少しばかり書かせていただきます。

読んでいただいた方の中に
共感、違和感、反論…
少しでも何らかの想いが残れば嬉しいです。

 

はましょーとたつやさんと出会ったのはいつだったか。
共通の友人と言いますか、
包み隠さず言うと、自分の元奥さんを介して知り合いました。

その後、引っ越しを手伝ってもらったり
はましょーの実家に泊まらせてもらったり
何度かご飯を食べたり、語らったりしました。

そして、この時期になると思い出すのは
2013年の夏、はましょーとたつやさんに
三宅洋平さん主催の「選挙フェス」に誘ってもらったことです。

「騙されたと思って見てみて!」と
はましょーから熱いメッセージをもらい、
三宅さんの演説動画を見てびっくり。
今までのどの政治家の人よりも信じられる言葉を語っており、
映像にすうっと引きこまれていきました。

その後、みんなで渋谷にて行われた選挙フェスへ。
あの空間、あの時間を一緒に共有できたこと。
その後、中華屋さんで美味しい料理を食べながら語らったこと。
しっかりと今の自分に息づいているのを感じます。

 

自分が何者なのか、簡単に書かせていただきます。
普段はカフェで働き、出版社で働いています。
どちらも同じ会社なのですが、
西国分寺にあるクルミドコーヒーというカフェと
そこから生まれた出版部門、クルミド出版で働いています。
お店に立ったり、本をつくったり、届けたりしています。

友だちに
カフェで働いていると告げると
「将来独立してカフェとか開きたいの?」
と言われますが、決してそんなことはありません。

自分が、カフェで働くということは、全く想像していませんでしたし、
まして出版に関わる仕事をする自分なんて
これっぽっちも想像していませんでした。

流れ流れて行き着いた。いや、拾ってもらった。
そこが心地よく、今も働かせてもらっているという感じです。

心地よいという言葉も説明不足かもしれません。
表現が少しおかしいのですが、
日々、全自分を投入して働けているという感じがあります。
(一時期、投入しすぎてバランスを崩したということもありましたが…)

 

また、違和感を手放さずに、言葉にすることもできています。
これも自分が働く上では大事なことで、
今の環境には本当に感謝しています。

13616281_1201271619884080_502748262_o
カフェは”総合芸術”とも言えるくらい色々な表現の機会がある。クルミドコーヒーで働きはじめて、15年くらい描いてなかった絵を描くようになった。

あと、もう一つだけ自分のやっていることについて書かせてもらいますと、
「猫背RADIO」というインターネットラジオを友人と配信しています。
はましょーとたつやさんも遠く離れた地で聞いてくれているようで、
嬉しい限りです。

このラジオ、誰からも求められていませんが、始めちゃいました。
(3年たった今も、誰からも求められてはいませんが…(苦笑))
何か大きな大義名分があって始めたというわけでもありません。

始めた当初のことを思い返すと、
居てもたってもいられずに始めたという感じだったでしょうか。

「今に生きるぼくらなりの表現の1つとして、ラジオを残してみよう。
恥ずかしいけれど、ちょっと背伸びして語ってみよう。
これを聴いた誰かがもしかしたら
(このくらいでいいなら)ぼくもなんか始めてみようかな
と思ってくれたらいいね!」と
相方のふるはっしーと話していました。

3年経った今、猫背ラジオが与えた影響は不明ですが、
はじめたときの想いは今も変わっていません。

 

「どんな社会をいいと思う?」
「どんな社会をつくっていきたい?」

こうした問いに対して、いつもなかなかちゃんとした答えを用意できません。
何を信じていいのか、日々揺らいでしまうことも多いです。

でも、働く中で、猫背RADIOを続ける中で、
ひとつだけ自信を持って言えるようになったことがあります。

 

ひとりひとりが表現することができる。
その表現が波及しあったり積み重なったりした社会って
結構いいんじゃないかなということです。

「表現」という言葉の含むのとしては、
思考、言葉、音楽、絵画、ダンス…。
(はましょーとたつやさんが続ける旅もひとつの表現だと思います。)
物体として残るものもあれば、残らないものもあると思います。
決して文化芸術だけでなく、
言葉にも形にもならないようなものも包含した「表現」。

これらに共通するのは、
「自分を一度通して、なんらかのもの・ことを、他者に差し出すということ」
というイメージをしています。

また、「表現する」というと、
どうしてもoutputのことのみを考えがちですが、
多分、大事なのはinputも含めた「表現」。

他人の表現に耳を傾け、受け取る。
そして、自分の中で溜め、熟成させる。
その後に、outputしていく。
この一連のプロセスを「表現」だと僕は考えます。

気がつくと先人たちや、自らがつくりだしたシステムの中で
自分を通して「表現」する力が失われているんじゃないか。

それは、ミヒャエル・エンデ『果てしない物語』に出てくる「虚無」のように、

僕らの周りを覆い囲んでいて、気づけば手遅れになっているかもしれない。

『はてしない物語』で「虚無」に対抗して描かれていたのは、ファンタジー。
これは、「表現」とも言い換えられると思います。

そして、「表現」の一歩目は、
どんなにかっこ悪くてもいいんじゃないかと。

とにかくなにか差し出してみる。
誰かが受け取って、応えて。
また新しい物をつくって。
その連なりの先に、表現は磨かれていく。
だからそんなに恐れなくてもいいんじゃないか。

「表現」の積み重なりの上につくられる社会
いつの日かそんな社会が訪れることを、無力ながら祈る。

そして自分ができることは
どんなにちっぽけで、何になるかなんてわからなくても
少しずつやっていきたいと思う、そんな今日この頃です。

 

13650555_1201944293150146_239652610_n
今田 順
東京都高尾で生まれ、広島県で育つ。 一橋大学社会学部卒業後、東京・西国分寺のカフェ・クルミドコーヒーで働く。 最近は、カフェから生まれた出版社クルミド出版での働きが主。まちのドキュメンタリー雑誌『そういえば さぁ、』の編集長も務める。
猫背RADIO
クルミドコーヒー


コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です