ハワイのなかの日本|私たちの知らない日本人の顔

車に乗ってても、道を歩いてても、すれ違いざまにShakaのサイン。”調子はどうだいブラザー” “頑張ってね”
“アロハ” “ありがとう”とHang Looseとスマイル。 軽く近況を確かめ合って、胸のあたりで握手を交わす。
温かくゆったりした空気が流れている。

Hang Looseサインのハワイアンマーメイド@近所のWarm Pond


 今回長く滞在したのは、ハワイ島。その他の全部の島の面積を合わせてもなお大きい、The Big Islandと呼ばれる島。火山で出来た島だから、標高の差が激しく、一つの島の中に七つの気候が存在する。熱帯雨林のようなジャングルもあれば、ヒマラヤみたいな寒い高山もある。スコールが降ったかと思えば、あっという間に太陽が降り注ぐ。プルメリアが咲き乱れ、道にマンゴーやアセロラの実がたわわになっている。

ため息がでるほど幸せな環境なのに、、WWOOF先のファームが決まらない!というか、そもそも返事が来ない!!しびれを切らして電話をかけると「Full now. Good Luck」とあっさり冷たい。。

一週間後、やっとのことでプナ地区のファームに受け入れてもらった。プナはキラウェア火山の麓、火の女神ペレの伝説が色濃く残る地域。その中でも、Lava Flow(溶岩の流れ道)がすぐ横を通る、パホアというヒッピータウンのファームで、私たちは過ごした。

火の女神ペレの伝説が色濃く残るプナ。

ファームでの様子は達哉くんが書いてくれてたような感じ。ただ、楽しいことばっかりだったか、というと違った。日本文化が大好きなホストだったから、基本的に喜んで迎え入れてくれたけど、会話の節々に重い言葉が挟まる。

「ハワイはマグロが有名だけど、日本のフクシマのせいで、日本以外の海も汚染されて、もう魚は食べれない」

「今年、日本はクジラを殺さなかったね。良かった」

マウナケアに植生する絶滅危惧種。名前は忘れちゃった。

ハワイでの “日本人” への視線は、想像していたより厳しい、と思った。観光客としての日本人、原発で世界中の海を汚染した日本人(ビーチカルチャー、食文化ともに海と近しいからかな)。聖なる山マウナケアの頂に、18階建の巨大天文台を建設しようとしている日本人。

泳ぎに行ったローカルビーチ。日本人顔のおじさんに「日本から来たのか?」と尋ねられた。Yesと答えると、「フクシマ コワイ radiation」と、片言の日本語が続いた。「私たちも怖いよ」それしか返せなかった。一瞬、悲しい目でお互いを見つめ合った。

ヒロの日本庭園と、ビーチ。SUPやBBQをする人たちで賑わう。ウミガメも来る。かつて日本人の村がここに在ったが、津波で全部押し流されたのだそう。

落ちこんでいる私に、「日本の中にいれば、自分たちも(原発の)被害者だけど、一歩外に出れば加害者になる」と達哉。海外から見れば、福島も東京も知ったこっちゃない。外からニュースを見ていれば日本中に放射能が蔓延しているように思うだろうし、日本の政府は食品の放射能数値を隠して輸出しているからもう食べない、ってなるのは仕方がないことのように思える。

ポリネシアの染織タパ(カパ)。木の繊維を木棒で叩いて伸ばし、草木染めでブロックプリント。これはハワイ流カパ@高級ホテル

1000年以上前、もともと人間のいなかった楽園に、ポリネシアから舟で渡ってきた。数世紀かけて移住と遂げた。自然を敬い、良い時も悪い時も火山と共に生きて来た先住民の人たち。ところが18世紀になってキリスト教使節団が入り、19世紀になってプランテーションによる出稼ぎで、西欧やアジアからたくさんの人が移り住んだ。影響なのか支配なのかは分からないけど、それがいまのハワイ文化を作り上げている。ちゃんぷるー文化。沖縄、と似ている。

ホノカアの町で見かけた鯉のぼり。そういえばもうすぐ子どもの日だ。

町で、鯉のぼりを見かけた。そこここに、日本の名前や、日本料理、日本人顔のおじぃおばぁ。そういえば、プランテーションで日本から移民がいっぱいいたんだよな、沖縄の人もいっぱい来たんだっけ、会って話せるかな。ぐらいの軽い認識だった。

知らないという怖さ、この見えないプレッシャー。

以前どこかで感じたことがある。そう沖縄で、だ。ハワイでの移民の歴史をよく知らないけど、日系ハワイ人から見たら、私が大和んちゅになるんじゃないか。そう背筋が寒くなって、慌ててハワイ移民の歴史を調べ出した。

明治元年から、ハワイ王国の砂糖きびプランテーションの労働力不足を補うため、移民が始まった。ちゃんと調べれてないから、詳しくはここに書かないけど、重労働、差別、けっして楽ではなかった新天地。砂糖きび、コナコーヒー、血のにじむような苦労の上に築いて来たファーム。
その歴史も知らず 「プランテーションじゃなくて”Organic Farm” に行きたい」とハワイに来た自分。底が浅くミーハーに感じた。

しかし、契約年期を終えた後も、彼らは日本に帰るという選択をせず、多くの人がハワイに残った。日系2世3世と根を下ろし、歴史に組み込まれた。ヒロ、ホノカア、パホア、どの町に行っても日本人の古い写真が残っていて、軌跡が垣間見える。

Honoka’aの古い劇場に飾ってあった、昭和を感じる写真。日本人が医者として村に入り、その病院が後に劇場に改装されたそうだ。

Home、ふるさと。

何が人を、その郷愁に至らしめるのか。
私の場合、異国の地を訪れる度、「自分は日本人だ、日本に還りたい、四季が恋しい日本で暮らしたい」その自覚が強くなった。

なぜ。ハワイへ出稼ぎへ行った日本人は帰らなかったんだろう。日本が恋しくなかったんだろうか。日本が懐かしくなかったんだろうか。

“Go with the Flow”というステッカーを見かけた。火山と(運命を)ともに。逃げ場がない島の中で、いつ噴火するとも分からないのに。怖い。もっと条件のよい土地があるだろうに、なぜそこに残るのだろうか。条件だけで探したら、もっとより良い土地はいくらでもあるだろうに。

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そう考えてみると、日本も最良の土地ではない。いつ次の大きな地震が来るか分からないし、フクシマ、原発、放射能、米軍基地、憲法、TPP、何も解決していない。日本の好きな点を挙げれば切りがないけど、マイナスな点は確実にある。他の国の人から見れば、なぜ日本人は逃げないんだろうって思われているのかな。

何をもとに故郷を、定住の地を決めるのだろうか。悩む私を尻目に、今日も懐の大きなハワイの土地は、様々な環境の変化に何も言わず、悠々と抱きかかえている。
とりあえず今は、色んな土地でそれぞれの人の答えを聞いて回ろう。
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